ふと思った事

私たちの意識や思考というものはそれだけで外界とは独立していると思っていた。

自分の脳での思考がまずあって、それらを身体を通して外界にアクションしていくという流れだ。

最近、そうではないなと思っている。

意識とは脳の中に独立してあるものではなく、脳と外界(身体を含め)を情報が行き来する事で、私たちが「意識」や「思考」と呼ぶものが生成されていくのだと思うようになった。

よくなぜ芸術家には「制作」が必要なのか、脳の中で完結できないのかを考える。

例えば五感をすべて失った物理学者が頭の中だけですばらしい研究をする事は可能か、とか。(そんなような内容の漫画もあった気がする。大発見をしても人に伝える事ができないとか。。)

そういった状況下では人間の思考は著しく低下するのではと思う。

脳は外界からの刺激なくしては思考する事ができない仕組みなのだと。

 

これは「制作」が必要だとする根拠になる。

最初、脳と外界(自然)がある。きっかけはどちらが先なのか分からない。

1つの情報が間を行き来する際に「誤差」が生まれる。

情報は両者の間を行き来する間に「誤差」を蓄えていき、やがてこの世に初めてのものが産まれる。この流れが「制作」という名の思考だ。

恐らく人間にはこの「誤差」がうまれる情報計算処理の仕方に共通のパターンがあり、それが似たような作品が産まれる原因となる。

また「絵具と筆」とか「ノミと大理石」のように他の人と同じメディアを用いれば、計算の仕方が似かよりやすくなり「誤差」の産まれ方も似てくるだろう。

歴史的にも新しいメディアが産まれた時に芸術は一見飛躍したように見えるが、本質的な進歩ではないだろう。

新しいメディアは何も技術の発展だけがもたらすものではない。

例えば鉛筆で紙に升目を引くだけでも産まれるかもしれない。それを自分のメディアとして情報計算を行う、恐らくそれがコンセプチュアルアートの真髄かもしれない。

(そこまで行くと、しかし他人には何をやっているか分からない奇人にしか見えないのかもしれないが・・)

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    sextelefon (火曜日, 31 10月 2017 19:58)

    obszyci

  • #2

    sex tel (土曜日, 18 11月 2017 01:25)

    haliotis

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