2015年

4月

06日

個展「荒野と茶」

個展が無事開催できました。改めて、展示の場を提供してくださったmusicoオーナーのお二人に御礼もうしあげます。さらに、今回の展示では初めて作品を観にきてくださった方々も多く、ごく近しい人達にやっと作品の雰囲気を伝えられたかなと思っています。お忙しい中、わざわざお足運びいただいた皆様、本当にありがとうございます。

 

『荒野と茶』省察

今回の展示で個展は3回目となり、だいぶ自分の作家としての特性が自覚できるようになってきた。画家としての作風というものはなかなか今でも確立できておらず、またそもそもする気もないのかもしれない、という事も気づいた。その変わりに展示の作り方「展示風」とでもよべばいいのか、そういったものは自分でだんだん分かってきたと思う。それゆえに展示を観ていただきたいという気持ちは強い。


「荒野と茶」というタイトルはDMに記載した文章のタイトルでもある。「荒野」は、もちろんこのあれ荒んだ現実の社会を意味するし「茶」はまさに展示会場となった喫茶店そのもの、そして芸術作品を意味する。今回の展示は完全にカフェmusicoという作品と自身のコラボレーションとして、お店に胸を借りるようなつもりで挑んだ。

展示を構成する作品は過去のものや新作、展示中に制作したものをそれぞれ織り込んだ。自分は過去の作品も決して(古い=良くない)ものだとは感じておらず、むしろ時を変え場所を変え展示を構成するピースとして用いる事ができると考えているし、そうした作品を作らねばならない。故にそれらの作品は製作中まったく個々に作られている事が多く、展示として一つの世界観を紡ぐ際に3つの文章を配置した。実際にそれらがどういった効果を持ったかは、自分には分からないのだが。

 

この展示を観るにあたって最良の時は個人的には開店すぐの朝の時間帯か、閉店前の人気のない夜の時間帯かと思う。特に夜は店内で照明の影が大きな価値を持ち出すため最良の時といえる。普通絵は照度をよくコントロールされた場所で展示するのが良いとされているが、暗がりの中にある美しさを発見する事ができたし絵に店内の調度品の影がくっきりとシルエットで落ちているのはとても重要だった。

絵画や芸術作品はすべてある種虚構の世界であるが、絵の中に入り込んだ影はいったい何なのか。それは絵画の一部のようにもみえるし、確固たる現実世界の物理現象でもある。影が虚構の世界と現実の世界の中間地点として「あちら」側や「こちら」側が互いに浸食するための橋渡しになってくれるのではないか。。

 

作品は常に2種類の人種に向かって投げかけているつもりだ。

1つは芸術に詳しい人間。専門的な教育を受けたような人種。(実際にこうした人種のお目にかかる機会があるかは別として)

もう1つにそうではない人間。自分の父や母のような人種。この2種の人種に投げかける事はある意味、相反し分裂的な行為といえるのかもしれない。自分のバラバラともいえるこれらの作品と展示の方法論はそういった理由からきている。

 

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2014年

8月

29日

アレルギー体質で、水に溶ける油絵具

私はもともとアレルギー体質で何かと困る事があるのだが、絵を描いたり物を作っていても壁に当たることがある。

一番困った事は有機溶剤アレルギーなのだが、以前大作の油絵を描いていたところ頭痛、吐き気、動悸、呼吸困難など命に関わると感じて油絵具を断念していた。

それ以後アクリル絵具で制作していたのだが、アクリル絵具は色を塗った後に色が変わってしまうという欠点がありとても苦労していた。「色の変わらない」と謳っているリキテックスプライムを使っていたがやはり、実際は色が変わる。自分のような色の諧調を重視する絵柄ではなかなかアクリル絵具は使いにくいものがありエアブラシなども併用していた。

1年前にホルベイン社から水に溶ける油絵具DUOという商品が出ている事を知り、それを使用している。仕組みは科学的に油と水が乳化するようにして水分が乾燥すれば後には乾性油が残り普通の油絵具と同じように固化するというものだ。

使い心地はアクリル絵具で泣いていた私には十分なものだ。

もしテレピンが苦手で油絵を諦めている方には是非おすすめしたい。

以下使用所感。

乾燥性ー速い 余った絵具や専用の乾性油は冷凍庫で保存するとよい。通常の油絵よりかなり速い。

隠蔽力ーやや低め 粘度は古典調。インパストにはやや不向き。

水溶性ーチューブから出した直後は問題なく溶けるがやはりテレピンのような溶解力は無いため慣れるのに少し時間がかかる。乾性油や速乾メディウムと水との相性はイマイチ。

この絵具の弱点は樹脂が使用できない事。その為乾性油か速乾メディウムでほとんど描いていく事になる。その際問題になるのは乾燥性だが、普通のシッカチフが混入可能(その他従来の油絵具や乾性油が混合可能)なのでそれで補う事になる。また専用の乾性油にシッカチフを混合し描く前日から空気にさらしておくと非常に速く乾く。

 

シッカチフに溶剤が含まれているため私の場合は、皿にシッカチフを注ぎ数日戸外で安置して溶剤を飛ばす。1週間くらいで溶剤が飛ぶのでそれを専用の乾性油に混合している。雨やゴミがはいらないように注意。

 

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2014年

6月

17日

ふと思った事

私たちの意識や思考というものはそれだけで外界とは独立していると思っていた。

自分の脳での思考がまずあって、それらを身体を通して外界にアクションしていくという流れだ。

最近、そうではないなと思っている。

意識とは脳の中に独立してあるものではなく、脳と外界(身体を含め)を情報が行き来する事で、私たちが「意識」や「思考」と呼ぶものが生成されていくのだと思うようになった。

よくなぜ芸術家には「制作」が必要なのか、脳の中で完結できないのかを考える。

例えば五感をすべて失った物理学者が頭の中だけですばらしい研究をする事は可能か、とか。(そんなような内容の漫画もあった気がする。大発見をしても人に伝える事ができないとか。。)

そういった状況下では人間の思考は著しく低下するのではと思う。

脳は外界からの刺激なくしては思考する事ができない仕組みなのだと。

 

これは「制作」が必要だとする根拠になる。

最初、脳と外界(自然)がある。きっかけはどちらが先なのか分からない。

1つの情報が間を行き来する際に「誤差」が生まれる。

情報は両者の間を行き来する間に「誤差」を蓄えていき、やがてこの世に初めてのものが産まれる。この流れが「制作」という名の思考だ。

恐らく人間にはこの「誤差」がうまれる情報計算処理の仕方に共通のパターンがあり、それが似たような作品が産まれる原因となる。

また「絵具と筆」とか「ノミと大理石」のように他の人と同じメディアを用いれば、計算の仕方が似かよりやすくなり「誤差」の産まれ方も似てくるだろう。

歴史的にも新しいメディアが産まれた時に芸術は一見飛躍したように見えるが、本質的な進歩ではないだろう。

新しいメディアは何も技術の発展だけがもたらすものではない。

例えば鉛筆で紙に升目を引くだけでも産まれるかもしれない。それを自分のメディアとして情報計算を行う、恐らくそれがコンセプチュアルアートの真髄かもしれない。

(そこまで行くと、しかし他人には何をやっているか分からない奇人にしか見えないのかもしれないが・・)

 

 

 

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2014年

6月

14日

「踊ってばかりの国」

関西圏のロックバンド「踊ってばかりの国」のCDを買った。

いっぺんにまとめて買うお金もないので少しずつ集めている。

 

こんなに自分をさらけ出して歌う人がいるだろうか。

まるで保身を考えず、格好つけず、歌いたい事をうたうその歌詞は過激ではあるが、まさに「本当」を、人々が見たがらない核心を深々と突き刺している。

 

おしゃれじゃない。そんな浮ついた感覚は微塵もない。

彼らが本来持ち合わせているだろう潜在的な音楽性の高さをあえて押し出さない。それはロックのメッセージの邪魔にならないよう抑えられており故に楽曲はシンプルな構成をとっている。

 

全ての表現者は彼らのロックを聴いて自問しなければいけないだろう。

 

 

「本当」をやっているか?

 

 

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2014年

6月

13日

「技」

(走り書き)

絵は誤差

技は誤差

精神性は技に宿る

論理構築の思考もまたひとつの技である

思考は言語のみによって成るのではなく、むしろ他の占める割合の方が高い

 

私は誤差を期待している。誤差とは新たなものとの出会いだ。その出会いは新しい思考を産み出すきっかけとなり、次の誤差を呼びよせる。

制作とは誤差を産むこと。

制作とは思考そのもの。

作品とは誤差の結晶でそれは当初、私の脳にあった芽生えとはまったく異なる新しいもの。

 

自らの手より自らも知らないまったく新しいものと出会うこの奇跡を制作と呼ぶ。

 

自然はいつでも人の前に未知であり豊富なきっかけを与える。

自然から独立しただひたすらに(音も光もない)脳内のみによって思考をするなら新しいものは何一つ産まれないだろう。

 

字を書くという行為

ピアノで音を鳴らすという行為

キャンバスに絵具を塗るという行為

コンピューターでプログラミングをするという行為

90分間グラウンドを駆け回るという行為

 

それらは全て思考なのである。

これら言語で説明する意外の思考を私は「技」と呼び

誰か偉大な先人の「技」と対話する為には自身もそれに見合った「技」を身につけている必要があるのだ。

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2014年

6月

13日

「現代アート」改め「西洋芸術」とする。

現代アートという言葉が前からひっかかっていた。

ごく広義には現代を生きる作家全ての作品を指す言葉だが、普通はもっと狭義のデュシャンの多種多様な末裔達を指して使われる言葉ではないだろうか。

 

もちろんグローバリズムだ何だで必ずしもそういった意味ではないのだが、この「現代のアート」という言葉何とかならないのだろうか。

結局それらは西洋のルールに基づいたアートでしかないからだ。

 

これからのアートは「頭脳的に進化する」といった類の言説を聴く時に常に感じる抵抗はきっと私がどこまでいっても骨の髄まで日本人(東洋人)である故だろう。

彼らの言う「頭脳的」とは「言語的」と言い換えれると私は思う。

彼らの言語性と日本人の持つ精神性は非常に離れたところに位置している。

コンセプチュアルアートは純度が上がる程に言語性に依存する割合が高まる。それらを日本人である我々が真の意味で理解する事はないのではないだろうか。

 

大陸の人々は侵略戦争の応酬で国や民族が違えば、同族の間で共有していた暗黙の価値観が通用しない事を痛いほど知っている。それ故に他の民族とのかけ橋として「言語」を重要視してきた。

反対に日本のような国はそうした必要性に迫られる事がなかった為、精神性を非常に高度に育てる事ができた。(初対面の人とのコミュニケーションを思い浮かべればよい。得体の知れない相手とは多くの言葉のやりとりを必要とするが、相手の事を深く知るにつれ言葉よりも表情やちょっとした仕草でコミュニケーションが成立するようになる。日本の歴史はこの過程に似ている)さらに宗教観の違いが加わる。

 

狭義の「現代アート」が持つ言語性の高さから「言語芸術」等と言い換えたいと思ったが、必ずしもそればかりではないという意見も確かなので「西洋芸術」とするのが最も妥当ではないか。(もしも現代アートが古典からピカソを経て現在まで脈々と続くものだと言うのなら殊更に「現代」とつける必要は当然ない。アフリカ等の芸術も西洋的価値観に沿って紹介されてきたものは西洋芸術と言えよう。)

 

では日本の前衛と言われた人達や現在のいわゆる「現代アーティスト」として紹介される人達は何と呼ぶか。これらの人々は「東洋芸術家」として扱うべきだろう。日本育ちの彼らが真の意味で西洋の「言語性」を理解する事はないからである。それらは精神性という捨て去る事ができない土台の上に築かれた「言語性」だからだ。

 

近代と現代、つまり「過去の芸術」と「現在のアート」の対立ではなく「西洋」と「東洋」の対立なのだ。これを混同してしまう事が物事をややこしくしているのだろうと感じる。

 

 

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2014年

5月

25日

芸術はいつから腐っていたのか。

たまたま何の気なしにyoutubeでジェフクーンズとかダミアンハーストとかの動画を観た。

狂気の沙汰だと思った。popartなんて観るもんじゃない。ろくな事はない。

まるで芸術に愛情の無い連中が功名心だけで彼らを利用し寄生している。

皆、悪人の顔をしている。悪人は歯を見せてよく笑う。

彼らは美術のコンテキストをねじ曲げ、それを盾に自分達の正当性をうたう。

愚かな、快楽主義のブルジョワを取り込みバックにつけその資本力で芸術の世界から良貨を駆逐していく。

それらの様相は概して巨大で完璧であたかも高尚な背景を隠しているかのようだ。無知な人達はただその外観の親しみやすさに惹かれ、幾分でも知識のある人は現代美術の持つ無知に対する後ろめたさを攻撃する特性ゆえにやはりそれらを厳粛に眺める。

 

芸術はいつから腐ったのか。ウォーホルからか。芸術家という職業が産まれたころからだろうか。もっと昔、そもそも始めから腐っていたのか。

芸術作品を眺めるあの様式はまさに荘厳な教会での礼拝と同じだ、とはよく言われる。

人が神やそれと同等とされた権力者達を崇拝する時、決まって芸術は共にいた。

 

宗教というものがまだ人々に有効だった時、少なくともそれが人間に最低限の良心を維持させていた。

神を否定した人間にはもはや、進化論における弱肉強食、弱者の淘汰、というルールしか残されていない。そしてそれが芸術の世界でも如実に繰り広げられている。

 

神を否定した人間の空虚を埋めるがごとく偽りの偶像が美術館を飾っている。

 

 

 

 

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2014年

3月

27日

二藤健人さんの展示・京都

先日、ふと思い立って京都に行ってきた。

京都は愛知からだと意外と近く、交通費もそこまでかからない。

目的は京都で二藤健人さんの展示がやってると友人から聞いたのと、ギャラリー巡りだ。

駅近くのレンタルサイクルで自転車を借りて「これで、京都巡りも楽勝だ。混んでるバスに並ばなくていいぞ」と思ったのだが甘かった。京都の道はどこも狭く、それに反して交通量は多いため、道がとても混んでいて自転車が全然前に進めない。その上、大半の観光客は当然、景色を楽しんで歩いているのかゆっくりだ。まったく自転車は進めない。

しかも中心地ではお目当ての店に着いても「駐輪禁止!」の立て札が嵐のように立っている。。京都は市バス一日500円乗り放題でいくべきだと痛感した。

 

二藤健人さんは以前名古屋のギャラリーMさんの個展でちらっとお会いしただけで、今回がほぼ初対面。アンテナメディアという団体が所有するスペースでの展示だった。

2階の床板をはがして1階と2階吹き抜けの空間に大きなベビーベッドを配したインスタレーションだった。2階からは回転するベッドメリー(赤ん坊をあやす玩具がくるくるまわるアレ)に二藤さんが作ったと思われるゴジラの尻尾、アンパンマン?の顔、月の石、飛行機が備え付けられており、それらが回転するとそのさらに上から水が雨のように降るという仕掛けがあった。展示のタイトルは「傘の内側に降る雨」とあり、二藤さんからの説明によると、傘は自然を切り開いてきた人間社会の文明を意味しており傘を発明する事で人類は自然の雨はしのげるようになったが今度はその文明社会の中で生きるが故の「目にみえない雨」を浴びている、との事だった。ベビーベッドの作品は、そうした傘と雨の関係が国家と人にも言えるのではないかという発想もあって作られたそうだが、国家という枠組みが人類のゆりかごとなり人類という赤子をあやすために様々な夢や幻想がメリーとしてくるくる回っている、それらは決して手の届かない高さでただ回っている、、目にみえない雨を降らせながら、といった内容だった。(作品の解釈に誤差はあるかもしれないが)

実は二藤さんこの度ご結婚されたそうで、作品の発想は実体験からきているものらしい。そうした二藤さんの切実な声が実に見事に芸術作品に昇華されており、深く感動した。感動できる作品との出会いとはそうそうあるものではなく、今回の京都旅行は忘れられない経験となった。

京都らしい場所は一切回らず、翌日帰路についた。

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2014年

3月

11日

ケーキ焼きました。本来ました。

さて、一つのブログ記事に複数の写真がアップできない事を今、気づいたのでさきほどの続きだが、上野の森美術館大賞展への搬入で忙しくて買えなかった、本が今日届いた。

「数学という学問」志賀浩二 著

内容はまだ読んでいないので分からないが、Amazonのお薦めで出てきて気になったので購入した。

もともと数学というか学問全般に苦手意識が強く、学生時代も勉強が苦手だった為、賢い人に憧れてこういう本を読みたくなる。

絵を描いていると、ある時期から全ての領域には共通する原理があると思うようになり、「原理」というものに興味がわく。

絵画は一種の思考言語であり、それはボクサーが拳で語る等と言われたりするのと同様できっと数学もそうなのだろう。

しかし残念ながら格闘技にも数学にも秀でていない私には一生その言語を理解する事はできないのだろうが・・・

 

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2014年

3月

11日

ケーキ焼きました。本来ました。

昨日、久しぶりにケーキを焼いた。チーズケーキとカステラとシフォンケーキとクッキーとクロワッサンとピザを今まで焼いたことがあるが、今回は初めての挑戦「バナナシナモンパウンドケーキ」である。レシピはクックパッドにあったものだ。

 

レシピに誘われるまま、近くのスーパー(この辺では珍しく夜の11時まで営業しているため、少し値段設定は割高感があるのだが)へ。

結果から述べると、砂糖を入れるのを忘れたため甘さ控えめとなったが、バナナのおかげでとても美味しくできた。(メレンゲを作る際に少量の砂糖は入れていた。)

ちなみに、以前チーズケーキを作った際は重要な薄力粉を入れ忘れ、さらに甘さ控えめを目指してほとんど砂糖を入れなかったところ、ただのチーズオムレツができたのは記憶に新しい。

 

 

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2014年

3月

07日

愛知県立芸術大学卒業作品展

今日、愛する母校、愛知県立芸術大学の卒業制作展を観てきた。

毎年、カラーが違うが今年は少し大型のインスタレーション等も少なく大人しい印象を受けた。(作品数も少ないのか?)

ただ一人ひとりがこの日のために普段は不真面目な生徒も様々な思いをのせて制作してきたのだと思うと感慨深い作品にもいくらか出会えた。

 

それぞれの科によって気風が異なり個人的な印象では、油科は個人主義、自分の表現や時代性に敏感な反面、質や技術といったものがおろそかになりがちな気風。

(真面目な生徒でも絵具の透明色と不透明色の違いを知らなかったりする事もある。)頭が先行しがちだ。日本画は、質や技術といったものを重要視する教育から自分の表現を掘り下げる事は後追いになり油科とは対照的な印象。彫刻科はどちらの要素もあるが、何よりまずは行動、といった風に制作へのアプローチの違いをいつも面白く感じている。もちろん個人によって様々なのだが教員の差によるものが大きいだろう。

ちなみに愛知県芸の内情として、日本画は基本的に日本美術院という画壇の先生方のみで構成されているのだがこれは国内の美術のマーケットを重視したある意味現実的な方針の為とも考えられ、結果的に似たような画風がそろう。(似たような絵という点は油科も同じ事が言えるが)

対照的に油画科の教員で画壇所属の先生はとても少なく、非常にコンテンポラリーに偏っている。そのためなのか、語弊を含むのを承知で言うならば油画科の卒業生は学校を出た後で制作発表の面で路頭に迷う事も少なくない。油画科は縦の繋がりやマーケットとの繋がりも個人で築くためその辺は基本無責任ともとれる教育に見える。彫刻科の卒業生はまず彫刻というジャンルが他のジャンルに比べ売り買いのハードルが非常に高い為、まず就職といった選択になるのではないか。またバイタリティの高い生徒が多いのかどこか遠くに行ったり何をしているか分からない人も多い。ただ皆、頑丈そうなのできっと元気にやっているのだろう。

 

卒業作品展に行くと普段、忘れていた人達の事も思いだす。そして一つひとつの作品が自分に刺激をくれる。それらにはきっと苦悩や不安、期待といった青春期の子達の"まごころ”が間違いなく込められているからだ。(自分の時もたっぷりのまごころを込めた作品を提出したのだが、誰も落ちないと言われていた院試に落ちたのはいい思い出となっている・・・それについてはまた後に書きたい。)

 

 

そして、本音を言うならば、どうか目立った才能が今後、芽吹く事がありませんように・・・彼らに(僕にも)幸せな未来がありますように。

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2014年

3月

05日

公募の通知が来るまで。

自分の作品を誰かに審査されるのが大嫌いで大御所と呼ばれる作家達の作品を観てもあまり感動しない。多分、ほとんどの作家がそうなのだろうと思う。

そうはいってもこの美術業界においては公募展に出さない訳にはいかず、それらの権威というか重圧なるものが存在している。

「公募展なんてしょうもない」そう強がってみた所で自分の絵を観てもらう機会もほとんどない者にとっては出すしかないのだ。。

結果がくるまでのこの数日、久しぶりに大学受験の頃のような緊張に襲われて、毎晩落選の夢をみた。

今日、ポストをみたら結果が来ていたのでカッターで封筒を開けるが、明らかにぺらぺらな封筒に「最悪の事態もありうる・・・」と手が本当に震えた。

結果は、「入選」

「・・・ただの入選?」

念のため美術館に電話で、さもまだ通知が来てないかのように問い合わせる。

「通知っていつきますかねえ?ちなみに、受賞者とかは通知が来た時一緒に分かるんですか?・・・あ、入選とかの欄に優秀賞とか記載されるんですね?わかりました。では今日、明日くらいには届くんですね〜。ありがとうございます。」

 

きっと「優秀賞」ぎりぎりの「入選」だったのだろう。

だって、公募展の大賞とかとった人のうち一体、どれだけがプロの作家として続けていることやら!!

 

 

「公募展なんてしょうもない!」

 

4月25日〜5月8日は上野の森美術館へhere we go!!

次は・・・小磯良平か?!

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2014年

2月

25日

そこから目をそらさずじっと見つめる

生きる事の矛盾。社会の矛盾。解決しきれない疑問と問題を見つめ続ける。

苦しさや傷みを、虚しさを見つめ続ける。

何もできなくても考え続ける。

楽しさに逃避するのでもなく、何も意味をなさなくても探し続ける。

見つめ続けることは画家にとって、ただ一つのそして最大の仕事なのだと思う。

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2014年

2月

23日

いわゆるブログ1

書きたい事はいっぱいあるのだが、書けないこともいっぱいあるし、そうなってくるとごくごく当たり障りのない事ばかりのOLのブログのようになってしまい、しかしOLならまだしも僕なんかの日常を誰も見てないブログで綴るのも意味があるのか分からないが、そんなこんなで今日の日常。

昨日は公募展の搬入だったので今日はほっとしている。美術館でも行きたい気分だが今の時期近場ではめぼしい展示はあまりなく愛知の人間はゴッホが好きやな〜、見飽きたわ!

と最近行けてなかったギャラリーNさんとJILL D'ARTギャラリーさん、エビスアートラボさんを伺った。

日曜日だが幸い他にお客さんもあまりおらず、オーナーさんや作家さんとじっくりお話ができて良かった。

JILL D'ARTでは今、売れっ子の楚里勇己さんの個展で相変わらずの盛況っぷりだった。この作家さんは植物の素描に定評があり、あまり売りには出ていないが特に枝ものの植物や名もない雑草を描かせるとその素描力がよくみてとれる。オーナーさんとしっかり話したのは初めてだったがとても明快なビジョンでギャラリー運営されている方という印象で、ふわっとした言い回しや曖昧な表現の多い美術業界の中では、話やすいお方だった。

Nさんは年末くらいから今日まで行きたい展示がいくつもあったのだがなかなか行けず、今日やっと展示を観に行く事ができた。ガラス作家の椎野美佐子さんの展示で、ガラスの作家さんと聞いて思い浮かべたのとは違ってインスタレーションの気風が強く自由な感じがして楽しかった。ガラスでドローイングするという感覚は自分の中に無かったので興味深いお話だった。

エビスでは以前、愛知の喫茶店「木曜日」の店員さんで知り合った、今村文さんの展示だった。文さんの展示は必ず行きたいと心に決めており、なんとか会期に間に合ったので嬉しい。とにかく絵が素敵なのでいつか一枚欲しいなと思いながら今日も買わずに帰ってきた。

自分は結構、人の作品が欲しくなるタチなのだが、いつも資本のなさに破れている。お金が入ったらとりあえず画集と何か音楽CDを買いたい。

本当は言いたい事はもっとあるが言えない事ばかりだ・・・

 

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2014年

2月

16日

夢と芸術

「芸術」と「夢」という言葉は自分の中ではほぼ同義語なのだが、少し前からこの言葉の意味が分からなくなってきている。

夢は遠くから離れて見るとキラキラして見えるのだが近くに来てみるとそこには何も無いのだ。まるで虹のようだ。

でも離れれば離れるほど輝いて見える。

あそこに何かあるはずだ。行けば分かるはずだ。

でも近づけば、あれ?この辺だったはずなんだけどな・・・

何も無いそこから離れられない。

 

われわれはどこから来たのか

われわれは何者か

われわれはどこへ行くのか

 

この言葉にずっと惹かれている。

今日、久しぶりに高校時代の友人達と会って、この言葉がまた浮かんだ。

 

 

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2014年

2月

15日

上野の森!!

絶対とる!!

上野の森!!

夕暮れる バックシート?

夕暮れるバックシート?

バックシートにおいて?

斜陽?

夕暮れに振り返る?

どんなタイトルにしようか?!

心の中に本当のタイトルはあるが・・・

分かりにくくなってしまうので。。

とにかく絶対とる!!・・・・・・

 

すごい不安。

いや、やるぞ!

 

・・・・

 

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2014年

2月

09日

個性とは

個性を出したければ、自分を見つけたければ、格好良くなってはいけないだろう。

格好良いとは、ある既存の型にいかに首尾よくおさまっているか、という事だからだ。まったく型の無い状態を人は格好良いと認識する事はできない。

「どこかで見たあの雰囲気に似ている」それが格好良いと言う事だ。

当然、格好良い人達はその既視感に集まり、似てしまう。

 

人は型に無い新しいものに出会った時「?」となる。格好良いのかどうか判断できない状態。出会ったその対象を自分の中でどう処理するか戸惑う状態。格好良いのもたらす安心感とは対照的な状態だ。

もしも「格好良いのも個性だ」と言う声があればその通りだと答える。

その人がそれを本当に信じきれるのならば、それは個性となるだろう。

そしてその個性は既視感の群の中から、その人を浮き上がらせるだろう。

 

美術の世界に個性を受け入れる余地があるかといえば、実際そうではない。

この世界の器は思った以上に小さいのだ。

それは現代アートも他でも同じだ。

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2014年

2月

07日

浮世絵が日本画の最高峰??

よく浮世絵が好き、とか外国人が浮世絵を素晴らしいと絶賛する声を聴く。

構図・色彩・確かにその魅力は奥深いものがある。

ただ浮世絵を日本美術の代表格のように扱うのはやめてほしい。

そもそも初期の浮世絵師は絵を狩野派に習っていたはずだし、その本質は大衆芸術だ。大衆に売れるかどうかが重要な意味を持っていた。

また恐らく絵を教えていた師も狩野派のエリートグループから外れた絵師達だろう。

当時のトップ絵師は恐らく障屛画等違う仕事をしていたのではないか。

もちろん浮世絵の発達とともに一ジャンルとしてその中で偉大な作家は出現したと思われるし、他ジャンルにも影響を与えたのも事実だ。

印象派が目にしたのは、たまたま持ち運びと流布が可能な浮世絵で、さらにその色彩と構図は大いに彼らのエキゾチズムを刺激したと思われる。

しかし、だからといって浮世絵が日本画の最高峰とは言えるだろうか。

(つづく)

 

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2014年

2月

06日

○○はもう古い、はもう古い。

自己矛盾的なタイトルだが、自分でもよく使う言葉「○○はもう古い」。

そう言ってる人のしたり顔といったら。

想像すると、恥ずかしくなってあまりこの言葉が使えなくなる。。

 

うすうす多くの人が感じている「新しい」という絶対的価値の崩壊。

別に新しくなくたっていい。良いものがいい。

どんな時代のどんなジャンルの情報だって手に入る時代。個人の好きな時代の好きなものを集めて、リメイクしていく時代。

歴史の見直しが盛んに行われる時代。

 

芸術も当然「新しさ」を追い求めるのはもう古く、

抽象表現全盛の頃のように「問題」と「解決」がある進歩主義はもう古く、

「写真か絵画か」はもう古く、

自分達の生きる時代の自己観察はもう古く、

結局白人主義の世界基準も、もう古く、しかし抗えず、

「現代アート」と「日本画」「洋画」等の名称も、もう古く、しかし無くならず。

 

だけど、なぜか「前衛」という言葉はとても好きだ。

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2014年

2月

05日

絵を描いたり、ものを作ったりするのが苦手

1枚の絵を描いている間は、ほぼ失敗の連続だ。

ある作業(ここを暗くするとか、もう少しタッチを消すとか)をしようとした時に打った手は必ず失敗する。仕方ないのでもう一手うつ。やはり失敗する。もう一手うつ。最初よりはまだましだが、やはり失敗する。何度かくり返すうちに失敗の度合いが幾分ましになってくる。それでも意図した通りにはなっていないが、最初よりは大分ましなのでとりあえず次の作業に移る。

 

なぜ失敗するかというと苦手な事をしているからだ。苦手な事だが絶対に必要な事が絵を描いていると次々とやってくる。というか、得意な事がやってくる場面の方が少ない。

 

絵は毎瞬間、自分に挑戦を投げかけてくる。「これが君にできるかい?」

そう言われるとウンザリしながら苦手な事をやらなくてはならなくなる。

(挑戦に負けそうになった時は彼女に電話をかけて泣きつく・・)

 

そうして全ての挑戦に打ち勝つことができたら、、、

 

本当に完成するのかもしれない。

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2014年

2月

04日

タバコと泥棒

タバコが身体に悪いことを前提として話すと、大人もタバコを吸うべきではない。(身体に悪くないという考えもある)

学校の先生は自分がタバコを吸っていたら、決して生徒のタバコを注意できる立場にはないはずだ。未成年は喫煙の害が大きい等と言っても、本質的に自分がやっている事を人に注意できるわけがない。

 

泥棒がもし貴方に「他人のものを盗んではいけない」と言ってきたら、貴方はそれに従わなければならない。例え言っている相手が悪人だったとしても、正しい事には従うべきだ。

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2014年

2月

02日

ロック。

最近ロックを聴いていなかった。ロックに詳しいわけでもないけれど、好きだ。聴いてると涙が出る時がある。

でもロックスターはずるいやつだな。ロックは根本的に虐げられた人達の歌。

魂の音楽。虐げているのは社会のルールを作り、操作する人々。

富が集中するという事はどこかから富を奪っているという事。

 

ロックスターは奪われる人達の歌を唄って、奪う側に立っている。

この矛盾。

 

でも、ロックが好きなんだなぁ・・

 

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2014年

1月

28日

日本画の先輩と夕飯

昨日、日本画の先輩と松坂屋でばったり会って夕飯。

一つ上の学年だった人で賢い。画廊の人にもとても礼儀正しい。(当たり前か)

先輩は風景や花、なんでも描く。新人としてはすごく売れていて、東京の百貨店で個展が決まったらしい。夕飯をご馳走になりながら色々相談した。

日本橋の百貨店は来るお客さんが特殊らしい。すごーく偉い人がいっぱい来て、ポンポン絵を買われていく。前田青邨とか東山魁夷とか自宅にあるらしい。別次元・・・

日本画はなぜか洋画と比べても人気があるそうだ。そうしたお客さんは壁に絵を飾るのが目的だからそれもそうか。日本でのマーケットの高価格帯はかなり日本画が占めているのだろう。それについては僕は批判も賛成もしない。ただあまり学生にはこういう現実的な話はなされていないのは問題。

大学でギャラリストや画商、学芸員等の特別授業が必要だろう。

芸術に関する純粋理論や海外での最新の動向とかばかりでは実際問題、日本の現状に合っていない。

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2014年

1月

28日

ブログ設置しました。

産まれて初めてのブログ。

最近毎日読んでいる小山健さんのブログ「手足をのばしてパタパタする」面白い。

ブログの文体はどんな風にしたらいいか分からない。「です」「ます」口調は一度はじめるとずっと丁寧語にしなければならない気がするので止めようと。

ブログを兼ねつつ制作の上での考え事など、書きとめたいです。

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